るるむく日記

趣味にひた走るつれづれの日々

夏の読書感想文

この時期本屋に行くと、「課題図書」が平積みです。それを眺める度ほろ苦い気持ちになるのはなかなか抜けません。私は隠しもしてませんが、「読書感想文」という奴がキライでした。苦手、且つ嫌い。
今を去ることうん十年前、小学1年生か2年生か、とにかく夏休みの宿題に初めて読書感想文が出ました。書けなかったんですねぇ。本そのものはすぐに読み終えたのですが、原稿用紙2枚、800字の感想文が書けなかった。何を書いたらよいのか、どう書いたらよいのかわからなかったのです。およそ夏休み中ぐずぐずひきずった挙げ句に、親に半分叱られるようにして書いたそれは、担任の先生には誉められたのですが、その内情 ― およそ親の示唆どおりに書いた ― を自覚していた自分には却って辛く、その夏休みの「事件」のおかげで本を読むのは好きだけれど読書感想文を書くのはキライというコドモができあがっていました。
今、この年になって振り返ってみれば、サポートなしに小学校低学年が読書感想文を書くというのは、よっぽど普段から「作文」自体に慣れている ― 自分の考えを文章化できるスキルを持っていなければかなり難しいだろう、ということと、感想文を書くという事は、その本の世界に入りっぱなしではダメで、いったん外から見直して、その本から自分が得たものを再構築しなければいけない訳ですが、本の世界に入って楽しむ事が好きなタイプだったコドモの頃の自分にとって、わざわざ外に出て構築し直すというのは楽しい作業ではなかった、ということは解りますが、当時は解る訳はない。とにかく読書感想文はずっと鬼門で過ごしてきました。


「読書感想文」が別の意味で私にインパクトを与えたのは、高校1年の時です。クラブの先輩が書いた感想文を読んで目からうろこが落ちたというか、なんというか。細かなディティールはすっかり忘れたのですが、彼女の感想文を読んで、その本が彼女に与えた衝撃、ある思考過程を経て、自分の思いもよらないような、想いにまで届いた、そのことが他人である自分に伝わった、という事に愕然とした訳です。
それ以降、到底自分にはそんな読書感想文は書けないな、という自覚は加わりましたが、無碍に「読書感想文」はキライ、という自分は大分薄れました。


そうして今は日記等で、本の感想、その他をいい加減に書き散らす日々を送る訳ですが、いずれにせよ自分がその本なり、何なりから受け取ったものを、他人に伝わるように、自分の言葉で書き出す、というのは難しいものですね。

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 (新潮文庫)

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 (新潮文庫)

「先輩」が読書感想文の自由図書に選んだのはこの本でした。