るるむく日記

趣味にひた走るつれづれの日々

ブロークバック・マウンテン(ネタバレあり)

ブロークバック・マウンテン (集英社文庫(海外))

ブロークバック・マウンテン (集英社文庫(海外))


なんというか二人の男性の関係性における、一種のファンタジーを観た、という印象。ファンタジーだから真実ではないというつもりはなく、ファンタジーの中にも真実はあるのだけれども。


カウボーイ同士のゲイのという話題が先行しているイメージがあり、そういった見方は確かにそうなのだけれど、なんだかその一言で説明を終わらせるのも違うもののような気がする。かといって「ゲイを超えた普遍的な愛」とか言われてもそれも違うような気がするし、この映画について語る事は難しいような気がする。


社会的タブーである(少なくとも当時のかの地において)同性間の肉体関係つきの恋愛が間に入っていて、しかも、最初はともかく途中からはお互い既婚なので不倫にもなっちゃって、とちょっとややこしい事になっているが、結局そういったことを整理してみると、お互い生活を変えたくない、もしくは変えられない、でも好きな人を思い切ることもできない、社会的に抑圧された立場の二人の恋人がいて、しかしその抑圧を少なくしようと生活を大改革することも、恋人と別れることもしないで、できる範囲ですごしてきて20年過ぎましたという話に見えてしまった。ちょっと君たち欲張りだよ、という気がしないでもない。


もちろん生活を変える事が社会的生命のみならず命そのものに関わるほどの困難さを持つということと、そこまでの困難さの中にあっても恋人を思い切ることができない苦しさを抱えるというのが、このドラマの中心にあるのだろうけれど。


西部でゲイとして生きるのは難しい、とか娘たちに対する愛情や責任があるから動けないという事は踏まえても、イニスは例えば何もかも捨ててジャックと二人だけでロサンゼルスやニューヨークといった「都会」へ、(いわゆる「西部」よりはゲイに寛容な地域に)出て行く、カウボーイであることを辞める、といったジャックと暮らす生活を選択しない。これはイニスの持つトラウマのせいでできないのかもしれないが、結果として、変われないイニスは保守の西部を背負っているし、彼への愛ゆえに同じく動けないジャックというのは哀れだ。変われないイニスも哀しい存在ではあるのだが。変わることを真剣に考える事すら多分彼はそもそも持っているアイデンティティからしてできないのだろう。その点はずっとジャックの方の立ち位置の方が軽やかに見える。



そしてこの二人の20年の物語は一方のジャックが死ぬことで、完結してしまう。
結局ジャックは自分が死ぬことによってしかイニスを決定的に動かす事ができなかったという哀しさ。
完結した二人の間の物語を抱えて、この先イニスが繰り返し繰り返しその物語を「自分にだけ」向けて語り続けるのかと思うとジャックもイニスも不憫という気もする。しかしそれは一方で究極のハッピーエンドということなのかもしれない。


死んだジャックはこれからイニスの愛を試すことも、惑わすこともしない。
だからイニスはジャックが死んだ後は揺らがない。死んだジャックはイニスをもう脅かさないので、イニスは安定していることができる。
一生一緒だと一方が死んだ後に誓うのってどうなのよ。
もちろん無意識下の中での行動なのだろうけれど、イニスは徹底してずるい男とも言える。


ところでパンフレットでも巷の映画評でも
ジャックの真の死因はゲイバッシングによるリンチ死
みたいなことを言われているけれど、そうなのかな。いや、そうなのかもしれないけど、私は実に単純にあのフラッシュバックは「イニスが恐れていた、常に抱えていたイリュージョン」なのかと思ったので。
イニスにとっての恐怖は自分たちの関係が周囲にバレてジャックが殺される事で、ジャックの死因がなんであれ、イニスにとってはジャックが死んだということは恐れていた事の実現であり、例え死因が事故であっても、ジャックが死んだ事を聞いた時に彼の脳裏には彼が抱えていた恐怖が映像として見えたのではないかと思ったのです。うーんよくわかりません。



とえんえん語ってみました。風景も人物もキレイに撮られていて、特にあの山の映像は反則じゃないかというくらい美しいし、俳優たちは説得力のある演技を見せてくれて、その手のシーンすらも品下らずすっきり撮られていて、観やすいんだろうなーとか。向こうの男性たちって80年代くらいでもみんなカウボーイハットかぶってるの? とか妙な所に感心して観てたというのもこっそり呟いておきます。