るるむく日記

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Letters of Tolkien No.89


Letters of J.R.R. Tolkien: A Selection

Letters of J.R.R. Tolkien: A Selection

 

 

 

89:1944/11/7-8 (FS60) クリストファー・トールキン宛て

 

お前の、守護天使の配慮についての言及に、守護天使が特別必要とされているという状況を私は恐れた。そして、聖グレゴリー教会での40時間の献身の聖餐の前で過ごした時に得た突然のヴィジョンを思い出させた。私は神の光とその中の浮いている小さな一つのちりを思った。光から発せられ、ちりに当たる放射光線が、ちりの守護天使である。神と創造物との間の介在するものだけでなく、神のまさに注意そのものが、各々に合わされているのだ。

 

日曜にプリシラと私は自転車で聖グレゴリー教会まで出かけ、カーター神父の最高(で最長)の説教の一つを聞くことができた。福音の書からの女と、ヤイロの娘の癒しについての素晴らしい解説が生き生きとした描写でなされた。そして近代のルルドの泉の奇跡からの実例も語られた。

しかし、悲しい結末が明らかなであったものが、突然の期待しないハッピーエンドとなった、少年の物語(事実だと認定された)において、私は深く感動し、我々すべてが持つーしばしば起こることではないがー奇妙な感情を得た。

それは、私がそれについて書き、説明しようと試みてきたまさにその事だったのだ。

ー「妖精物語のエッセイ」((On fairy stories 「妖精物語について」)と思われる)の中で。このエッセイはお前にとても読んでいてほしいと願っているので、おまえに送るべきだと考えている。

そのために私は[eucatastrophe]という言葉を造語した( ユーカタストロフィー:「幸福な大団円」 と杉山洋子さんは訳されている))

:物語の中での突然の幸せな転換-あなたを喜びでつらぬき、涙をもたらす(それは妖精物語がもたらす最も高い機能であると私は主張している)

そして私はすばらしいフェアリーストリーにおいて、「復活」は最も偉大な「ユーカタストロフィー」の可能性であり、そして本質的な感情を生み出すのだと結論づけた。

涙を生み出すキリスト教の喜び、それは悲しみに似た特質のため、それが、喜びと悲しみが一つところ、調和した所にあるところからもたらされるため、と利己的行動と利他的行動が愛において失われるように。

 

私は「ホビット」の物語を読んだとき(書き終えてからだいぶたった後に)、私は、「鷲だ! 鷲がきた!」 というビルボの叫びにかなり強い「ユーカタストロフィー」の感情を持った。 そして「指輪」の最後の章で、(お前が受け取ったとき、注釈をつけてくれることを期待している) フロドの顔が青ざめ、サムに彼が死んだことを確信させた、サムが希望をあきらめたときに。

 

そして私たちはまだ11月5日、日曜の聖グレゴリー教会のポーチにいる。

 そこで私は最も心動かされる光景を見た。ぼろ布の上に年老いた放浪者がいて、思索に没頭していたが、私は彼が、エジプトへ行くときの聖ヨゼフに似ていると考えた。彼は聖なる放浪者にみえた。

 

日記で終わらせよう。

月曜にめんどりが一羽死んだ。C.S.L (ルイス)とC.W.(チャールズ・ウィリアムズ)と10:40-12:50に会った。

とても天気の良い午前で、ルイスの窓の外に植えられているマルベリーの木が、コバルトブルーの空に、ファローゴールドのように輝いていた。しかし午後には天気が悪くなり、りんごの木の世話の汚れ仕事を2時間もかけてやった。

 火曜は講義とちょっとした会合 "Bird"でルイス兄弟とウィリアムスと。

 お前に話すのを忘れていたが、Gielgudハムレット私はとても楽しんだ。
 
 
 前回アップした手紙から2か月以上もあいてしまいました。時間を取れなかったのもそうですが、なにせ、89の手紙は長いし、形而上的な話が多いし、数珠繋ぎ思考法とでもいう感じに、つながりつつ話題がどんどん変化発展していくので、読み手としてはかなりしんどかった、というのが本音です。そのほかカトリックのあれこれとか、聖書の話とか、引用された句の引用元は何かとか、いきなりでてくる固有名詞にこの人だれ?? と調べたりしているとなかなかまとまりませんでした。
 
本人も、「これはとても奇妙な手紙になりつつあるね。私は、すべてが不可解なものに思われないように願う。」などと書いているのですが。
 
近代の奇跡としてトールキンが引用していた二つの治癒の奇跡はネットでは検索できませんでしたが、こうして手紙に引くくらいだから、当時は有名だったのでしょうか??
 
途中「eucatastrophe」について語るところは、On fairy stories」で語られていることー現実世界である第一世界と、物語世界である第二世界においての真実についてなどーに深くつながっていて、改めて「妖精物語について」を読み返してみると、キリスト教カトリックの信者であり、物語の創作者であるトールキンの考え方がにじみ出ているなと、感じました。
 

最後に出てくるGielgudは、名優Sir Arthur John Gielgud(ギールグッド)だと思われます。audibleに彼のハムレットの音源があったのでぽちっとな。トールキンが楽しんだ彼のお芝居を追体験できます。

 

この次の手紙はもう少し早く、ちゃんと読みたい。